2009年10月6日火曜日

関連文書#04

※以下に掲載する文書は、『未来』2007年5月号(488号)の小特集「土本典昭の仕事」に掲載された原稿である。冒頭で言及されるインタビュー本は、『ドキュメンタリーの海へ──記録映画作家・土本典昭との対話』として刊行済み。「関連文書#01」参照。


対岸を見る人──土本典昭の「巡海映画」|鈴木一誌

土本典昭さんに、石坂健治さんが入念にインタビューをした本(仮題『土本典昭の仕事 ある記録映画作家の軌跡』現代書館より近刊)のデザインをしている最中だ。近く公開予定の『映画は生きものの記録である』(藤原敏史監督)は、この聞き書き作業と同時進行で生まれた映画作品である。〈映画本〉のデザインをするときに気がかりなのは、スチール写真や撮影スナップなどの存否である。ヴィジュアル面への配慮が誌面を生かしもするからだ。さいわい、土本夫妻の全面協力が得られ、作家が所蔵している膨大な資料から、自由に写真を使えることになった。

某日、年代別に整理されたアルバムやスクラップが、土本宅の机に積みあげられ、ページをめくりながら、これはと思う写真に付箋を貼っていく。あらためてデジタルカメラで複写しにくるのだが、合計何枚の複写になるのかを把握しておきたい。準備に影響するからだ。午後一番からはじめて、四〇〇枚の付箋を使いきり、写真の選定作業が終わったのは、夜七時ころだった。その決して長くはない時間で、数千枚の写真と資料に目を通す作業は、ひとをセンサのような存在にする。ゴツンとした手応えが感じられるときがある。それまで、脈絡をもって捉えられていなかった写真群が見えてくるときもあるが、今回は別の感触だった。写真を見るうちに、土本年譜のなかで「巡映画」として知られる活動の重要さが、腑に落ちた。頭で知っていたことが、写真の塊との出会いで、ひとつの〈体験〉に変異したのかもしれない。「巡海映画」は、一九七七年の項にこうある(『土本典昭フィルモグラフィ2004』土本典昭フィルモグラフィ展2004実行委員会、二〇〇四年)

「8・1 「不知火海・巡海映画班」天草上島より上映を開始。その後約100日間、不知火海沿岸の133集落、65ヵ所で上映会」

土本は、七四年に『医学としての水俣病 三部作』を、七五年には『不知火海』、七六年に『水俣病 その20年』を完成させている。七五年と七六年には、カナダのインディアン居留地での巡回上映におもむいている。水俣病の世界的な拡散に応じた活動だったろう。カナダでの巡回をステップにして、上映活動を、一転して海外から国内に向かわせる。水俣の対岸の天草にである。

「一九七七年のほぼ一年間は不知火海巡海上映活動に没頭したといっていい。映画を撮るのではなく、ただただ上映の旅であった」(『水俣映画遍歴 記録なければ事実なし』新曜社、一九八八年。以下『遍歴』)

巡海映画班は、土本のほかに一之瀬正史、小池征人、西山正啓の四人を基本として編成されていた。アルバムを繰るごとに、これまで見たことのない「巡海映画」のショットが現われる。スタッフが乗るクルマを甲板いっぱいに積載して、こじんまりとした舟が海上をいく。村の集会所だろうか、「海辺の映画会」というノボリがはためき、縁側ではスタッフがポスターやビラづくりに余念がない。炊き出しに駆けつけた石牟礼道子さんの顔も見える。ラジカセをかついで路地を回っているスタッフがいる。呼び込みをしているのだろう。ベタ焼きしか貼ってないページでは、ルーペでひとコマずつを追う。映写設備のない土地を訪れ、準備をし、会場を観客で埋め、また船に乗る。こうした写真が、繰りかえし出てくる。それ自体は作品ではないために、つい副次的に見なしていた上映活動が、反復のなかから、重みを帯びて立ちあがってきた。

帰宅後、土本の著書『わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録』(筑摩書房、一九七九年。以下『旅』)を手に取る。この本まるごとが、「巡海映画」をめぐっている。これまでは、タイトルの「旅」を比喩的に捉えていたのだが、あらためてその表紙に対面すれば、題名が「巡海映画の旅を通じて自身の映画を発見した」と断言していることに気づく。

土本は、「巡海映画」の一九七七年を「不知火海水俣病元年」と名づけている。「巡海映画」の動機は、映画を見せたいということに尽きるだろう。映画作家ならだれでも、ひとりでも多くの観客に自作を見て欲しいと思うはずなのだが、「巡海映画」には、土本固有のベクトルがはたらいている気がする。

「私はいまも生起している水俣病を不知火海に予感するのです。それゆえに、手はじめに映画をもってこの暗黒の浜辺の人びとに会いつづける計画を立てたのです」(『遍歴』)

フィルムに写っている「水俣の」水俣病を、生起しつつある水俣病の渦中にある不知火海沿岸のひとびとが見るのだ。観客に、観客自身を見せる行為と言ってよいだろう。もうひとつの直接性は、撮影の当事者たちが上映する点だ。

「今まで水俣病の情報も伝わっておらず、水俣病を忌みきらっていた不知火海の漁村に、映画をもちこめるのは「作った人間」しかない」(『旅』)

「映画を作ったものが見せたいと言う──この言い分だけが反発者をも黙らせる唯一の抗弁のはずだ」(『遍歴』)

土本は、「映画作家が自分の映画を何十ぺんと観客のなかで見ることの苦痛をなんといえばよいだろう」と告白しながらも、「自分の映画にやすりをかけ」るように観客と向きあう。その上映は、「快楽に転じうる苦役」(いずれも『旅』)とも書く。人びとと自分のあいだに映画が置かれる。自分とみずからのつくった映画がセットとしてまずあり、その映画を多くの観客に見て欲しい、というベクトルとはまったくちがう。人びとと自分が別個に配置されるのだから、当然、その両者のあいだには大きな空洞が出現する。上映とは、その空洞を埋めていく行為である。土本にとっては、動員人数が未知なのではなく、空洞が埋められるかどうかが未知なのだ。目の前に大きな空白を置きつづける、これが記録映画作家・土本の方法意識だろう。空洞を見すえて、魂が駆動をはじめるようすは、「党」についてだが、すでに語られている。

「私は党を私の上に見るのではなく、組織のメカニズムに見るのではなく、私と人びととのあいだに見る」(『旅』)

映画作家・土本は、つねに観客を見ようとしている。観客という〈対岸〉を見ている。ナレーションや図解に工夫を凝らし、分かりやすさにつとめようとしている。分かりやすさにつとめるとは、作者と観客のあいだに横たわる谷間の深さを冷徹に見ているということだ。土本の空洞は、人間関係においてばかりではなく、空間にも転回しうる。

「私はいつも、対岸天草と離島を眺望し、その地点からの視座で水俣病事件の総体を見直したい思いにかられる」(土本典昭「不知火海水俣病元年の記録 第二部1」『暗河』二五号、一九七九年)

水俣にいながら対岸を望見し、こちらとあちらのあいだに広がる不知火海を見ている。その不知火海の底には、有機水銀を含んだヘドロが四百数十トン、スプーン一杯分も掬いとられることなく堆積している。チッソがあって繁栄する都・水俣に対し、天草はつねに周縁だった。〈水俣=中心←→天草=周縁〉との構図は、さまざまに変化する。たとえば、水俣の魚は汚染しているが、天草の魚は清浄だ、との対比だ。この図式のなかで、天草の魚は商品的な需要を呼ぶのだが、それゆえ、天草からは水俣病患者を出してはならない、との暗黙の了解がみちびかれていく。

「水俣病には、何が水俣病であるかの“合せ鏡”がない。水俣の多発地帯ですら患者と非患者は、お互いに身体の異常を話しあい、手探りで水俣病像を学びあってきた」(『旅』)

特定の病像をもたない水俣病の〈見えなさ〉が、天草に水俣病者を発見しない。だが、天草の離島に在住する女性の毛髪から、記録史上世界最高の水銀値が検出される。水俣で捕れた魚も天草の魚も、不知火海を通路とし、回遊している。ヘドロを呑みこんだ不知火海は、これからも病を誘発する空洞であり、「水俣病汚染地域の“暗黒部”といわれる水俣の対岸・天草や離島」(『旅』)は、水俣病の情報が伝わっていないという意味でも、水俣病と名づけられない水俣病汚染地域という点でも、空白地帯である。つぎつぎと空洞を見出していく土本の軌跡は、〈非中心〉的だと言ってよいだろう。こうして、水俣の対岸という空ろな穴が映画によって埋められようとする。

「水俣から一定範囲(今回半径三十キロ)内の漁家集落は順次一つのこらず上映することにした。スピーカーで触れて歩き、チラシを一戸のこらずまき、映画会がそこでの注目すべき出来事になるように、そして子供も大人も半病人も、一夕、そこで水俣病事件と病像を知ってもらえるようにプランをねった」(『遍歴』)

「巡海」するにあたって、土本は「一ヵ所の空白をも作ってはならない」(『旅』)とする。これは、完璧主義からというより、空白を埋めようとする「巡海映画」が空洞をつくってどうするのだ、との言表にほかならない。政治や行政が生みだした空白を、表現活動で満たそうとするかにみえるが、そうではない。空白を、空間へと見出すのだ。

「水俣から御所浦に医学のスポットが当るまでに十七年、御所浦の一角の外平にその微光が射すまでに更に五年を要したのである」(『遍歴』)

「医学のスポットが当るまで」の時間差を、「巡海映画」の練られた一筆書きのような行程プランが逆説的に描きだすことになる。強いられた空白に、表現者によって認識された空白が対峙するのだ。「巡海映画」行をともにし、その助監督を長くつとめた小池征人が、土本作品について、「映画として成立するんだけども、それだけでは満足しない表現を映画に残す」(小池征人・鈴木志郎康「土本典昭の方法論」『日本ドキュメンタリー映画の軌跡 70年代』山形国際ドキュメンタリー映画祭東京事務局、一九九五年)と指摘する。微細な「不純物」が残されている、とも言う。さらに、「巡海映画」の上映では、「一度映写機を止めて、逆回しして、またそこを見せていく」といった「普通、表現やってる人はそんなことしない」ことまでする土本像を伝える。土本自身も「活動弁士の方法をとることにした」(『遍歴』)と明記している。

「それだけでは満足しない表現を映画に残す」とは、そこに観客の視線を呼びこむことだし、映画としてだけの成立に拘泥しないのだから「不純物」を含んでいる。「不純物」を絶妙に配合するには、恐るべき編集的手腕が必要だろう。空間に、完結した映画を注ぎこむのではない。作り手と観客それぞれのもち寄った空洞が交流するのだ。作り手と観客が交通する微細な通路が無数に通っている。見る者は、そのフィルムから単一の解答を手渡されるのではなく、問うことをはじめるのだ。土本作品を見ることは、「元年」であり、あらゆる観客は当事者である。

「巡海映画」は、「全住民(赤ん坊から出稼ぎ不在者も含む登録人口)の三〇パーセントから、離島のように六〇〜七〇パーセントという、異常なまでの動員率の高さを引きだし」(『遍歴』)て、のべ入場人数は八四六一人にのぼったと聞く。そのいっぽうで、あらたな空白が生まれる。小池は、土本あての私信にこう書く。「映画を通して人びとと接触し、その後、去ったあと、地元に残された人びとのなかに残る心の波紋を誰が責任をとるのか」(『旅』)。土本の映画を見るとは、「心の波紋」を引き受けることだ。映画から運動がはじまる。