2009年10月4日日曜日

関連文書#03

※以下に掲載する文書は、東京国立近代美術館フィルムセンターにて今夏開催された「ドキュメンタリー作家 土本典昭」展 (7階展示室、2009年6月30日─8月30日)のギャラリー・トーク(2009年8月1日)として読まれた原稿である。採録ではなく用意原稿であり、当欄での発表にあたっては若干の改訂がなされている。なお、文中で言及される「京橋映画小劇場」での上映はすでに終了している。また、S・クラカウアー『映画の理論』は翻訳の計画が準備中と仄聞している。


『ある機関助士』と土本典昭の初期作品
|中村秀之

0|はじめに

こんにちは、中村秀之です。このような画期的な展示が行なわれている会場で映画作家・土本典昭の仕事について話をするという思いがけない特権を与えていただきまして、岡田秀則さんを始め、この企画の関係者の皆様にお礼を申し上げます。

私は残念ながら生前の土本典昭氏とお話しする機会がなかったのですが、今日は「土本さん」と呼ばせてください。観客として土本さんのフィルムを繰り返し観て、聴衆として何度もトークを聴いたことがあっても、じかにお付き合いするチャンスはありませんでした。だからでしょうか、ここに展示されているノート類や「仕事部屋」は、私にとっては、ご本人の不在よりもむしろその存在を強く感じさせるものです。たとえば直筆のノートがあります。『海に築く製鉄所』当時の手帖に大江健三郎の「死者の奢り」に対する批判的な感想が書き付けられているのを目にしますと、この頁を選んで展示したセンスの良さに感心すると共に、やはり、それを書いた人のペンを運ぶ手の動きと心の動きが感じられてなりません。文面からするとここでの心の動きは怒りのようですが、それはどんな怒りだったのか…。また、展示の最後に置かれた「仕事部屋」にはちょっとつまらない疑問を抱いてしまいました。長方形の座卓の短辺、短い辺に座椅子が置かれて展示されています。ふつうは長い辺の方に座るんじゃないだろうか、これではちょっと窮屈なんじゃないか、と、ふと余計な心配をしてしまったのです。その後、部屋の中での座卓の位置や、この座卓が主に執筆や切り抜きに使われていたので別に支障はなかったといったということなどについて説明を伺い、かつてそこに座っていた人の姿や身ぶりが、ようやくその場所にすぅっと収まってゆくような気がしました。前回のトークで石坂(健治)さんが言及されていた『原発切抜帖』の、あの鈍く光るよく切れそうな、大きな鋏が脳裏によみがえったりもしました。

ノートにしても机にしても、今は存在しないけれど〈かつてあった手の動き〉を感じさせてくれます。仕事という形を残したその身体や心の動きに想いが向かいます。このような空間でその人の仕事について語ることには何かとても不思議な感じがいたします。

しかし、〈かつてあった身体〉と言えば、実は映画こそ、独特なやり方で、その〈かつてあった身体〉の運動を記録し、時の流れや社会的な従属からその身体を請け戻す、あるいは救出する力を持つのではないでしょうか。そして土本さんこそ、とりわけ労働と身体、身体と仕事や活動の関係に目を凝らして映画を撮り続けたドキュメンタリー作家でした。

本日は「『ある機関助士』と土本典昭の初期作品」というテーマをいただきましたが、労働する身体を映画的に請け戻すこと、救出すること、あるいはその名誉を回復することといった観点から、初期の作品のいくつかのポイントについてお話ししてみたいと思います。

1|土本典昭の「初期」

ところで、土本典昭の「初期」とは何時のことでしょうか? とりあえず「中期」や「後期」にまで責任を取らなくても良いとすれば、やはり『留学生チュア スイリン』(1965年)の前まで、『ドキュメント 路上』までを初期と見なすのが妥当だと思われます。『留学生チュア スイリン』は初の自主製作作品というだけでなく、土本さん自身が「僕の映画としても転換点だった」と語ったフィルムです。国費留学生の身分を取り消された一人の留学生の復学要求の闘争に寄り添いながら、何が起こるか予測できない状況のなかで、出来事の偶発性に対応してキャメラを廻さなければならないというフィルムでした。反対に、これ以前の作品は、従来の「記録映画」のスタイル、つまり、程度の差はあれ事前に書かれた脚本にもとづき、しばしば意図的な再構成の「演出」が施されたものでした。

土本さんは岩波映画製作所に入る前に羽仁進監督の『教室の子供たち』を観て衝撃を受け、記録映画を志すようになったと語っていますが、実際には、土本さんが初期に撮ったフィルムは現実を再構成して演出する従来型の「ドキュメンタリー」でした。『教室の子供たち』のようなタイプではなく、『教室の子供たち』と同時期の岩波映画の作品で非常に高い評価を受けた『ひとりの母の記録』のような作品でした。たとえば『ひとりの母の記録』に出てくる農村の一家は、実際には別の家族から寄せ集めた擬似家族だったということで、その点が一部からは批判されたりもしたのですが、『ドキュメント 路上』のタクシー・ドライバーの家族も同様の架空の家族だったわけです。

しかし、そのような従来型の再構成的な演出のスタイルにおいても、土本さんのフィルムでは、労働する身体の生き生きした動きをしっかりと見据えるまなざしは際立っています。

2|初期の演出作品:「年輪の秘密」と「日本発見」

土本さんが最初に演出した作品は「年輪の秘密」と題されたテレビ用フィルムのシリーズでした。日本の伝統芸能や伝統工芸を紹介するシリーズで、日本鋼管の委託、岩波映画製作所の製作、フジテレビが放送しました。土本さんはシリーズ中7本を演出しました。

伝統工芸の紹介がテーマなのだから労働する身体の生き生きした動きが捉えられていて当然だろう、と考える人もいるかもしれません。しかし、同じシリーズでも、やはり演出家や撮影者によって少しずつスタイルが違うのです。職人が仕事をしている光景では基本的に3つの要素が存在します。まず、手あるいはその他の身体部位、次に道具、そして品物として仕上げられるべき材料です。たとえば、手、鉋、材木といった組合せですね。しかしこれらの3つの要素をどう撮るか、画面でどう配置するか、これは映画の作り手によって同じではありません。たとえば、あくまでも職人が作る品物を画面の中心に据えて、手や道具は二の次というスタイルがあります。「浮世絵の復刻」という作品がそうです。構図もフォーカスも図柄を見せることが中心で、手や道具はフレームの端に置かれたりフォーカスから外れたりしていることが多い。しかも、作業の途中で頻繁にカットを切り換えます。あるいはまた、道具が中心である場合もあります。たとえば「寺大工」という作品で、槍鉋(やりがんな)が紹介される場面では、道具を扱っている手はフレームの隅に置かれ、しかも、キャメラはカンナの動きを追いかけて前後に動くので、大工さんの身のこなしはよくわかりません。

土本さんが演出したフィルムでは、「浮世絵の復刻」や「寺大工」と異なり、手、道具、材料ないし品物の三者、あるいは手とそれが加工する素材の二者が、ほぼ均等に画面上に配置されるか、むしろ手が中心を占めていて、手と道具と材料の関係、接触面での手の動きをしっかりじっくりと見せてくれます。「久留米がすり」という作品の「手括り(てくびり)」という作業での指と糸、「経巻き(たてまき)」という工程で経糸を巻き取ってゆく手の動き。また、「有田の陶工たち」という作品では、粘土に白くまみれた両手が器の形を整えてゆくのを正面からのクロースアップで捉えた直截な画面に目を瞠ります。面白いのは、このフィルムは土から器までの全製作工程を見せるにもかかわらず、ラスト・ショットでもう一度、轆轤で回転する土を成形している手のクロースアップを見せることです。土本さんはどこかで「職人芸に見入ってしまう」と語っていましたが、まさにこのショットにはフィルムの作り手のそのような関心が如実に現われています。

しかし最もスリリングなのは「江戸小紋と伊勢型紙」(1960年)でしょう。型紙を彫る彫刻師たちの指と爪、刃物、厚紙という三つの要素同士の関係がなまなましく捉えられています。撮影は清水一彦です。錐彫りでは、片手の指先に添えた錐を別の手でリズミカルに回転させて直径1ミリたらずの円をあけてゆく過程がじっくり撮られています。と思うと、錐の先の超クロースアップの後に、突然、笑顔で風を切るオートバイの若者のクロースアップが続いたりします。唖然とさせられる編集ですが、この若者は伝統技術の後継者なのです。また、突き彫りでは、先の鋭い小刀一本で模様を切ってゆくのを、長く伸ばした中指の爪が小刀の刃先を支えています。

こうして、手、道具、材料の三者を、均等に、そして、それらの関係、それらの接触面での動きをしっかりじっくり見せる。土本さんの演出では、端的に画面のなかで手が占める面積が多く、手のアクションを鮮明にとらえているのですが、とりわけその皮膚が道具や素材と触れ合う様子が生々し、それが観ていて心地良いという特徴があります。

土本さんが次に手がけるのが「日本発見シリーズ」別名「地理シリーズ」の6本です。富士製鉄の委託、岩波映画の製作、NETの系列で放送されました。「岩波写真文庫」の「新風土記」シリーズがもとになっていて、全体として「地誌」というコンセプトの上に成り立っているので、「年輪の秘密」のように労働する身体を集中的に取り上げられるシリーズではなかったわけですが、それでも述べてきたような土本作品の特徴が随所に見られます。

たとえば「佐賀県」(1961年)という作品で、有明海の干拓地のある貧しい農民が、副収入を得るためにムツゴロウを獲りに干潟に出る場面は鮮烈です(キャメラは鈴木達夫)。サーフボードのような板に左ひざを乗せ、右足で干潟の泥を蹴って進む。キャメラはときに超ロング・ショットで、またときに農民の真後ろにつき従い、泥の中に片足を突っ込んでは蹴って前進する農民を写し続けます。干潟の泥とその上を滑る板を見ていると「有田の陶工たち」の最後、轆轤で回転する土とそれを成形する手のショットを思い出したりもしますが、荒涼と広がる干潟で獲物を求めて独り滑走する農民のよるべない姿には、後の『水俣 患者さんとその世界』におけるきわめて対照的な蛸取りの場面を想起させられます。

3|レジスタンスとリデンプション

ところで、前回7月11日のギャラリー・トーク、私も拝聴しましたが、とても興味深かったのは、『ドキュメンタリーの海へ』における土本さんの発言の事実との食い違いを、お姉さまが指摘されたことでした。土本さんの幼少期に土本家は貧しかったのか、大学を除籍されたときお父様は息子を勘当したのか、この2点が問題だったと記憶しています。しかし、仮に歴史的事実と食い違っていても土本さん本人の心情にとっては真実だったということでよろしいのではないでしょうか。その点、『ドキュメンタリーの海へ』という本の価値が損なわれることはまったくありません。むしろ、インタビューのおかげで、ご本人の思いと資料的に確認できる事実とをつきあわせ、土本さんとその時代について、いっそう理解を深めることができることでしょう。

たとえば、今、私が気になっていることの一つは占領期におけるレジスタンス文学の受容についてです。インタビューのなかに、土本さんが「幻視の党」という考えを抱いたのがフランスのレジスタンス文学を読んだからだと語っている箇所があって、そこで帆足計という人物の名前を出しています。しかし、占領期にレジスタンス文学を紹介した代表的な人物となると、淡徳三郎や小場瀬卓三あるいは加藤周一といった人たちです。帆足計がそういう仕事をしていたのかどうか……。もっとも、帆足計は戦後の日中交流史の重要人物ですから、ひょっとすると日中友好協会に勤めた土本さんが個人的な交流のなかでレジスタンス文学を教えられたということはあったかもしれません。この点は、どなたかご存知の方がいらっしゃったらご教示をお願いしたい点です。

青年期にレジスタンス文学をどう読んだかが気になるのは、労働する身体に向けられる土本さんのまなざしが、土本さん流の映画的なレジスタンスの方法でもあったのではないかと思うからです。先ほど、〈かつてあった身体〉を映画的に請け戻すこと、救出すること、あるいはその名誉を回復することといった表現を用いました。債務や抵当を弁済する。質に入れていた品物を請け戻す。償還する。名誉を回復する。罪を贖う。身代金を払って人質を救出する、実はこれらの動詞はすべて「redeem」という一つの英単語の複数の日本語訳です。名詞形は「redemption」。近年、再評価の機運が高まっているジークフリート・クラカウアーという思想家が晩年の著作『映画の理論』の中心に据えた概念です(まだ邦訳がないこの本が早く日本語で読めるようになるといいのですが……)。

ともあれ、生きるための労働という営みをその必要という制約から救出すること、時間の流れにさらわれた身体の活動を請け戻すこと、あるいは社会的な支配・従属の関係のなかで剥奪された仕事の名誉を回復すること、このような重層的な意味を持つ潜在的な力が映画にはあるのではないか。言い換えれば、身体と道具と素材が触れ合って何かが作られたり何事かが達成されたりする、そのような営みとしての労働を喜びに満ちたものとして〈映画にする〉、つまり公共的な水準での活動という形で分有させる、そんなことができるのではないか。かつて土本さんは、水俣での映画づくりが可能になったのは、「仕事とも道楽とも生活とも闘争とも分かちがたい姿勢」を熊本の水俣病を告発する会から学んだからだ、と書いたことがあります。まさに映画にはそのような潜在力があるのではないか。『ある機関助士』は、まさにそれを実現したフィルムではないでしょうか。

4|『ある機関助士』(1963年)

さて、『ある機関助士』です。

1962年5月3日の三河島事故、貨物列車の脱線に次々と旅客列車が巻き込まれて160人もの死者を出した大惨事の後、国鉄は自動列車停止装置(ATS)の導入による安全対策をテーマとするPR映画を作ろうと企画コンペを行ないました。しかし、岩波映画製作所は、あえてATSを取り上げずに他ならぬ三河島事故が起きた常磐線の動力車乗務員を描いた土本さんの脚本でコンペに挑みます。その頃を回想して土本さんが語っている次の言葉は非常に重要だと思います。

「三河島事故の特徴というのは、運転者(運転士と運転助士)の信号に対する注意義務違反と結論づけられたんです。事故の原因はそういう過失にあると。一部の新聞で労働過重だという論評はあったけれども、メインは過失であると言われている中で、交通安全に努力している国鉄というテーマで撮ってくれというわけです」(『ドキュメンタリーの海へ』81頁)

土本さんは大事故が起こった同じ路線で安全を描かなければダメだと考えて脚本を書き、ロケハンにあたっては田端機関区の労働組合を訪れたと言います。

「その田端機関区の人々が罪に問われているわけだから、「よく来た」っていうことで、下にも置かないもてなしでね。僕は「機関室に乗りたい」と言ったら、「どうぞ」っていうわけで乗せてもらって上野−水戸間を往復した。そのおかげで大体ディテールは把握したんです」(『ドキュメンタリーの海へ』82頁)

ここで語られている当時の状況、事故の原因や責任にかんするマスメディアや世論の論調はしっかり頭に入れておかなければいけないでしょう。マスメディア、そして世論は、十分な調査もされていない段階で運転者の過失であると性急に断定し、その責任を追及しようとしました。たとえばニュース映画、『朝日ニュース』全国版No.878「死者157人の大惨事」(1962年5月9日)のナレーションなどは初期の報道の典型例でしょう。

「原因は貨物列車の機関士が信号を見間違えたのが第一で、発煙筒を焚いて上り電車の出発を止めなかったなど、二重三重の不手際がこのような大惨事を引き起こしたのです。〔…〕しかし、輸送量が増大してもそれに伴う保安設備があれば、このような事故は防げたのではないか、と言われています。一刻も早く、国鉄の緩んだ気持ちを引き締めて、二度とこうした事故を引き起こさないよう立て直してもらいたいものです。」

このような一般の論調に対して、国鉄動力車労働組合(動労)は機関紙『国鉄動力車』やパンフレット『列車の安全 三河島事故を二度と繰返さないために』(1962年6月)などで反論を展開し、過密ダイヤのもとでの定時運転重点主義が安全確保の障害となっていることや、安全のための施設改善をなおざりにして個々の労働者に過度の負担を押し付けていることなどを批判していました。そして、8月には乗務員の過失について裁判が始まります。

映画『ある機関助士』は、常磐線の動力車乗務員の「何も異状のない」一日の業務を描いています。しかし、過密ダイヤの危険性や定時運転主義のプレッシャー、信号や踏切が多いという設備上の問題点、信号の誤認の可能性、運転士の肉体的疲労や緊張などを画面上の随所で示唆し、さらには多重事故防止の訓練をユーモラスに再現して風刺するなど、当時の論争的状況に対して映画的に介入していることは間違いありません。このフィルムにおいて映画作家土本典昭はすでに〈加担〉しているのです。同時に、このフィルムは何といっても動力車労働者の名誉回復のフィルムであります。ただし、それは、乗務員が日々安全のために努力していることを広報するといった、いわば対抗的なPR映画になっているという意味ではありません。

例えば、『ある機関助士』のオープニングを、やはり機関士が主人公で蒸気機関車が走る場面で始まる『獣人』(1938年,監督:ジャン・ルノワール)のオープニングと比較してみましょう。『獣人』の冒頭もきわめて緊張感に満ちた優れた場面です。しかし、『獣人』の機関士と機関助士には労働する身体の喜びはありません。二人の乗務員は言葉を発することもなく、必要があれば口笛を吹いて合図するだけ、お互いに仕事をしながらどこか上の空といった風情、機関車は勝手に爆走しているかのようで、そのことが端的に恐怖さえ感じさせます。二人が蒸気機関車を運転しているというよりも、驀進する機関車のオートマティックな動きを乗務員が辛うじて制御しているといった趣があります。これは主人公が遺伝的素質という本人に抗えない力のために殺人を犯すという物語にも対応しています。

それに対して『ある機関助士』は、安全か危険か、勤勉か怠惰かといった二項対立を超えて、映画そのものが人間と機械が一体化した喜ばしい運動になりえているがゆえに、労働する身体の名誉を回復するフィルムとなったのでした。このフィルムが一貫して圧倒的な支持を得てきている理由は何といってもその点にあるのでしょう。二人の運転士はお互いに頻繁に確認の声を交し合い、きびきびした身ぶり手ぶりで機関車を走らせています。人間と機械とが一体化しているからこそ、しばしば隣の線路や線路際に向けられる視線が効果的なのです。『獣人』には機関士を正面から撮る(客観的な)ショットはありますが、逆に『ある機関助士』の視点は運転士に寄り添い、だからこそ、線路際という帯状の場所が、いわば人間と機械からなる高次の身体にとって敏感な皮膚とも呼べる領域となっているのです。機関士が車体の熱をたしかめるために手を当てて様子を見る場面などにも皮膚の主題が見て取れますが、それだけでなく、人と機械とが一体化しているがゆえに、いわば運動の皮膚、接触の領域とでも呼ぶべきものが形成されるのが観ていて面白い点です。

5|「東京都」(1962年)と『ドキュメント 路上』(1964年)

「初期土本」の輝かしい成果が『ある機関助士』における労働する身体と機械の共演であるとすれば、初期の終わりを主題的にしるしづけるのは、喜びを奪われた労働する身体をとらえた二本のフィルムということになります。すなわち、「〈日本発見シリーズ〉東京都」(1962年)と『ドキュメント 路上』(1965年)で、奇しくも、この二本ともスポンサーから拒否され、「お蔵入り」したのでした。

「東京都」は、地方出身者の苛酷な労働によって支えられている大都市東京を見つめています。強烈な印象を与えるのは、大食堂の従業員の休憩時間、狭い部屋に押し合いへし合いしているウエイトレスたちが畳の上にいっせいに脚を投げ出しているその素足の列です。ここには長時間労働による疲労の主題がワンショットで力強くつかみとられています。

『ドキュメント 路上』は、「大都会そのものが殺虫装置」だと土本さんが言うように(『ドキュメンタリーの海へ』96頁)、端的に仕事の喜びが得られない環境での労働と身体のあり方を問題にしているフィルムです。大都市の交通システムに閉じ込められた喜びなき身体のストレス、疲労、不安、恐怖が鋭いモダニズムで描出されます。『ある機関助士』とは全く対照的に、運転手が機械と一体化して喜ばしい運動を形成することなどありません。むしろ、渋滞や歩行者や事故によって頻繁に停車や徐行を強いられ、なかなか前進することさえできないのです。また、長時間座ったままの仕事なので、ドライバーたちは胃下垂に悩まされたりもしています。

けれど、土本さんは本人も繰り返し語ってきたように「快楽」の人ですから、そのようなフィルムにも喜びの感じられる場面は挿入されています。『ドキュメント 路上』の洗車の場面、運転手が自分の手で車を洗います。タイヤ、ホイール、フロントグラスがホースからほとばしる澄んだ水で洗われてゆく、その水の感触の心地よさ……。ここでは車を走らせている場面でない点が重要です。この場面を観ると、私は「〈日本発見シリーズ〉鹿児島県」(1961年)の黒豚を洗う場面を思い出してしまいます。豚の背中をたわしで熱心に洗い、水をかけて皮膚の汚れを洗い落とす。洗われる豚自身も気持ち良さそうに鳴いていて、いささか複雑な気分にさせられる場面ではあります。

とはいえ、『ドキュメント 路上』は喜びなき労働の〈声〉で終わることになります。タクシー会社の構内で、集団でブレーキのテストをする運転手たち、タイヤと地面が擦れ合う強烈な音、これは喜びなき街での労働を強いられる運転手たちの怒りの叫びであるのかもしれません。

6|おわりに

そして、『留学生チュア スイリン』で新しいスタイルを身につけた後の土本さんが赴くことになるのは、まさに労働する能力を損なわれ仕事をする喜びを奪われた身体たちの世界、すなわち水俣でした。ここからはもはや「初期」の話ではなくなります。私の話も終えなければなりません。ただ、確かなことは、その後の土本さんの映画から労働する身体の喜びが消えることがなかったということです。『水俣 患者さんとその世界』の尾上老人の蛸取りの場面の素晴らしさについては今さら言うまでもありません。それに土本さんは『海とお月さまたち』(1980年)のような生命と労働の詩も残してくれたのです。もうすぐフィルムセンターでは「京橋映画小劇場 No.14 ドキュメンタリー作家 土本典昭」の上映が始まります。初期のテレビ用作品は含まれていませんが、この機会にまた土本さんのフィルムをできるだけ多く観たいと思います。皆さんもご存じのように、それは端的に喜びの体験にほかならないからです。以上です。ありがとうございました。