土本典昭の100年の海へ

2010年6月24日木曜日

三回忌

本日、三回忌。

忘れた頃に山猫は再来する。──「争議」採録、近日より順次公開。

2009年11月3日火曜日

関連回答#01

「土本典昭の海へ」企画者のひとりが、「ドキュメンタリー映画の最前線メールマガジン neoneo 」134号にアンケート回答を寄せています。
http://archive.mag2.com/0000116642/20091103134820000.html

2009年10月14日水曜日

会場写真

10.12ヤマガタの夜の山猫たち。

席順は、ビラと同じ。石坂氏は予定通り出席。なお、柱の時計の針は止まっている。





2009年10月12日月曜日

謝辞

「【山猫争議!】土本典昭の海へ」、大盛況のうちに終了いたしました。ご報告はあらためてなんらかのかたちでいたす所存ですが、ひとまず、お付き合いいただいたすべての「山猫」たちに深く御礼申し上げます。事前には物騒な檄文をしたためましたが、畢竟、誰もツチモトを忘れていないのだ、ということ。ありがとうございました。……ん? ブログのタイトルが変わってる? にゃー。(2009年10月12日午前5時、山形にて、d.n.)

2009年10月11日日曜日

急告

山形国際ドキュメンタリー映画祭2009自主講座

【山猫争議!】
土本典昭の海へ


2009年10月11日(日)22時─24時
香味庵1階奥(山形市内)

ツチモトを忘れるな。記録映画作家・土本典昭(1928─2008)。その偉業をヤマガタの地で顕彰するのは、ドキュメンタリー映画を愛する者の務めであろう。これは追悼シンポジウムではない。遺された映画のいまだ見尽くしえぬ「光」を、映画の歴史・映画の現在へと召還するための、ワイルドキャットなアクションである。その光にみちびかれ、山形の秋の一夜、幻視の党が編まれ、無償の言葉が放たれるのだ。

山根貞男
上野昂志
鈴木一誌
諏訪敦彦
石坂健治
(予定)
中村秀之
藤井仁子


*通訳無し、日本語のみ。
*聴講無料。参加退出自由。カンパ歓迎。

企画:岡田秀則・中村大吾

──以上、転載歓迎。




  
[クリックで拡大] デザイン=鈴木一誌




土本典昭はまぎれもなく映画作家だった|蓮實重彦

ドキュメンタリーとフィクションという二つのカテゴリーは、映画にとって何ら本質的な差異をかたちづくるものでない。問題は、それが映画として成立しているか否かにかかっている。まだ映画評論家として立つ心構えもなかったわたくしにそのことを教えてくれたのは、土本典昭にほかならない。

実際、土本典昭は、まぎれもない映画作家としてわたくしの前に姿をあらわした。『水俣 患者さんとその世界』(1971)を持ってヨーロッパを回っていた彼とパリのシネマテークで出会ったとき、初対面のわれわれは、終映後にトロカデロのカフェで何時間も話し合い意気投合した。あのショットはすごい、あれはいったいどう撮ったのかという素朴な問いに、彼は、現場の興奮を再現するかのように熱気をこめて答えてくれた。ドキュメンタリー作家にありがちな社会的な責任で身をこわばらせることなく、撮影と編集にまつわる真の悦びと不安とを吐露してくれたのである。

映画について書くことに必要な視点と踏まえておくべき技術とをわたくしに伝授してくれたのは、忘れがたいあの夜の土本典昭の身振りであり言葉である。そうとあからさまに口にしたことはなかったが、彼は気づいてくれていたと信じている。



土本典昭の倫理|四方田犬彦

土本典昭という、生涯無転向のドキュメンタリー作家の足跡を辿ってみたとき、気がついたことをいくつか記しておきたい。彼の人生に繰り返し登場する、倫理的旋律のことである。

直接に政治的な発言をしないこと
これはマレーシア留学生から水俣まで、ともすれば新左翼系の学生が闘争の契機とする状況のなかに積極的に身を晒していた土本にとって、重大かつ決定的な選択であったように思える。左翼の言説が頽廃に陥ったときにしばしば見せる傾向として、現下のある事件を安易に他の事件と連動させ、状況の個別性を軽視して全体状況とやらを抽象的に語り続けるという困った現象がある。おそらく土本も水俣の宿舎にあって、かかる観念論を振りかざす学生崩れにさんざん煩わされてきたことであろう。彼らとの不毛な議論を遮断するためにも、まず大文字の政治的言説を回避し、撮影行為がその場から引き出すミクロな政治性に限定して関わるという選択をしたことは、体験的に賢明なことであった。土本はカメラを被写体に向ける行為の根源にある暴力性を優れて自覚していた。「相手はキャメラを見れば武器と思うし、それで引きつった顔を加害の側の人間が撮れるものか」と、彼は先行するドキュメンタリー作家の亀井文夫の方法を批判して語っている。

つねに単独者として行動すること
土本典昭は小川紳介と違って、けっして自分でプロダクションを組織しようとはしなかった。彼はつねに制作会社とそのたびごとに契約を取り交わし、フリーの立場でドキュメンタリーを監督した。小池征人、大津幸四郎、一之瀬正史といったぐあいに、声をかければ即座に駆けつける同志たちはいたが、土本は集団の長として彼らを統率することにはまったく関心を示さなかった。彼はまた単独者であることを撮影対象にも要求した。チュア・スイリン、滝田修、川本輝夫、そしてあまたの匿名の胎児性患者たちは、それぞれ周囲から孤立し、誤解と偏見のなかで苦しみつつ、誇り高き単独者であり続けている存在である。単独者が単独であることだけを根拠にして築き上げるであろう共同体こそ、土本が理想として思い描いていた党であった。

いかなる場合にも余所者であり続けること
土本はどれほど長く水俣の患者たちの集落に滞在しようとも、けっしてその地の方言を安易に口にしたりして親しさを演技したり、被写体と馴れ合うことを厳重にみずからに禁じていた。彼はつねに冷静な標準語で患者たちに接し、自分が外部から到来した異人であることを強調しようとした。これは三里塚や古屋敷村に住み着き、ホモソーシャルな共同体を築きあげながら映画を撮り続けた小川紳介の組織論とは、まったく対照的である。ドキュメンタリーとは定住者の眼差しではなく異邦人のそれによってこそ撮られるべきものだという信念は、「ドキュメンタリー映画は、そもそもロードムービーだと思っている」という発言によく表れている。

[『新潮』2008年9月号掲載論考からの抜書。土本発言の引用は石坂健治・土本典昭『ドキュメンタリーの海へ』から]


2009年10月10日土曜日

関連文書#05

※以下に掲載する文書は、『未来』2007年5月号(488号)の小特集「土本典昭の仕事」に掲載された原稿である。


セザンヌ的態度──土本典昭『映画は生きものの仕事である』を再読する|諏訪敦彦

初めてテレビドキュメンタリーを演出する機会に巡り会った時、私は報道キャメラマンを取材対象に選び、彼らと行動を共にした。局内にある控え室にスタンバイし、事件、事故の一報が届くと、彼らは一目散に出動し現場に向かう。多くの場合、現場に到着しても警察の検証などで立ち入り禁止となっており、何も撮るべきものがない。それでも彼らは現場の最前線に突進し、キャメラを構える。まず現場に最も近い場所に行け、と先輩に教育されたのだと言う。例えばそれが交通事故で、傷ついた我が子を前に泣き崩れる母親がそこにいたなら、彼らは間違いなくキャメラを向けるだろう。彼らは一秒を争う現場において、瞬時にキャメラを向けるべき対象を峻別し、行動する。そのときなぜ?という疑問を自らに突きつけることは許されない。そのような躊躇があれば、彼はプロの報道キャメラマンではなくなるのだ。しかし、本当は彼らも心が痛んでいる。「僕たちは他者の苦痛にどうしてキャメラを向けるのか……?」仕事が終わり、若い彼らと一緒に酒を飲むといつもそんな話だった。仕事を離れ、彼らは人間に戻る。プロであるとは、そのように人間として感じ、考えるという当たり前のことを停止させてしまう能力に他ならない。明日また、彼らがプロとして、つまり人間であることを停止させ、傷ついた人にキャメラを向けるとき、彼のファインダーに収まっているその人もまた人間ではなく、ただの「対象」であるだろう。

「ドキュメンタリーとは人と出遭う作業であるとのべた。それとともに、カメラをもつことから始めて見えはじめる人間に投企するものであり、「被写体」という妙な言葉でいわれる対象者との関係から、真の人との出遭い、新らしい人との出遭いを重ね、それを記録していくものだ」と土本典昭監督は書く(『映画は生きものの仕事である』未來社、新装版二〇〇四年、一一七頁。以下同書の頁数)。単純なことが述べられていると思う。ドキュメンタリーを志す人間ならば、誰もが人との出会いを尊重したいと思っている。しかし、キャメラをもった人間が人として人と出会うことは、実は容易なことではない。キャメラは撮るものと撮られるものを残酷に区別する。撮影中どんなに親密な関係を築いた振りをしても、キャメラを構えるものは、どこかにその目的を隠しているペテン師である。撮影が終わると関係も終わり、キャメラに収録されたイメージは、撮られるものの預かり知らないどこか別の場所に持ち去られてしまう。キャメラをもったものの目的は、その収穫したイメージをどこかに持ち帰ることである。もし彼が「自分は何のために撮りにきたのか、この部落、この町において必要な僕の行為というのは何なのか」(六七頁)というナイーブで根源的な問いに留まってしまったなら、彼は撮影を進めることができない。とりあえずそれは「正義」のため、あるいはこの現実を広く社会に知らしめるため、と自らを納得させ、その問いに目をつぶり仕事に戻るのだろう。

そんなふうにして、いまも夥しい数のキャメラが世界を飛び回り、人々の苦痛の映像を配信し続けている。その正義のための映像は、悲痛な有り様を伝えはするが、その映像を見る人間を同じ苦しみで犯すことはない。映像を見る人間は何のリスクも負わず、責任も問われないまま、その苦痛を安全に眺めることを許されている。そこには「正義」だけでなく、徹底的に「人間」が欠けている。

「私はモラリストでも社会運動家でもない。そうではないものとして、つまり一人の自由な映画人として、私の道の楽しみ、つまり道楽として映画を作っている」(二二三頁)と、土本監督は言ってのける。水俣の現実にキャメラで向き合うことを「道楽」であるとは奇異に響くかもしれない。キャメラを向けられることを拒絶もせず了解もしない「生きている人形」のような水俣の少女を前にして「何故? 何のために? どの地点にたって私は撮っているのか?」(一五頁)と問いかける映画作家は、「映像の零度」とでも呼びたくなる瞬間に立ち会っているのだと想像する。そこでプロとして撮影を敢行することも、人として撮影を放棄することもできるであろう。ある意味でそれは容易いことかもしれない。しかし土本監督はただの人でもなくプロでもなくキャメラをもった人間、つまり「映画人」としてそこに留まる道を選ぶ。私はいたいからここにいる。これは道楽である……。

「人を盗み、肖像を切り撮り、人の言葉を採る……そうした物理的武器、レンズ、フィルム、テープ等を私が一方的に独占し、それを力としてもっている存在である以上、「被写体」の人間と私とは同列平等であり得ない。まして編集という個的な作業でイメージを創造でき、一見、全く別個の世界をつくり上げられる立場をもっているものが、シリアスであるべき事柄を表現する際に、フィルムの上でのみ“映画作家”的であってよいのであろうか?」(一三六頁)土本監督は、構成のプロであることをも捨て、撮った順につなぐという編集スタイルを自らに強いる。作家として主体的に世界を構成すること、選択すること、整理することを制限する。それは、主観を消して無作為を装い、ありのままのリアリズムを徹底しようとする態度とはまったく違う。むしろ問題は「私」である。その態度はセザンヌに似ている。セザンヌが自然と切り結ぶ態度は、作家が主体的に世界を構成しようとするものではなく、主体を消してしまおうとするのでもなく、自らの存在を自然と絵画の関係の触媒として差し挟む行為であろう。そのような主体を、もはや作家とは呼ばない。「それは、作家の仕事ではなく、生きものの仕事なのである」(一三六頁)

私は、友人でもあるポルトガルの映画作家(彼は作家なのだろうか?)ペドロ・コスタのことを思い出している。社会から遺棄されたものたちが暮らすリスボンのスラムで、そこに暮らす人々とともに映画を製作した彼は「大事なのは、映画を作るという仕事(労働)です。映画ではありません。例えば、あなた達、東京やパリ、ロンドン、ベルリンのシネフィル達にとって重要なのは映画でしょう。しかし、私にとって、最も重要なのは人々とともに作り上げることなのです。私が映画の出来に満足するのはその後のことです」と言い(「壁の汚れ、想像力とともにある生」『現代思想』二〇〇五年五月号、一一八頁)、映画を作家の自己表現の成果物として外部に持ち出し、映画を快楽として享受する観客のために差し出すことよりも、自らが触媒となってその映像を再びその場所の人々に返すことの教育的側面を重視する。彼らの新しい制作態度は、かつてフラハティやリュミエールの初期の映画がもっており、しかし現代においては失われてしまった映画の根源的な可能性へと私を連れ戻す。過度にプロフェッショナル化し、見るものを無知に追いやる映像と、ただ写っているだけで無自覚に垂れ流される映像の氾濫の中で、『映画は生きものの仕事である』という書物に充満する言葉の響きには、現代の映画の可能性を切り開く予感が漲っている。

2009年10月7日水曜日

関連演習#01

※以下は言うまでもなく無断転載である。情報の取り扱いに関しては、各自ワイルドキャットに対応されたし。なお、参考文献中に言及される佐藤真氏の著作はこの6月に合本復刊(「愛蔵版」)されている。

開講年度 2009年度
科目名 表現・芸術系(後期)演習23
学期曜日時限 後期 01:木7時限
担当教員 藤井仁子
開講箇所 第二文学部
配当年次 2年以上
科目区分 表現・芸術系
単位数 2
使用教室 01:32-224
キャンパス 戸山

副題
記録映画作家・土本典昭を見る
講義概要
昨年亡くなった土本典昭(1928-2008)は、戦後日本を代表する記録映画作家であったのみならず、世界映画史に燦然と輝く偉大な映画作家の一人でした。わけても水俣の「患者さんとその世界」にキャメラを向けつづけたことで知られる土本にとって、映画は対象となった人々や観客と一緒になって考えるための「道具」でしかなかったのですが、にもかかわらずその作品は、今なお土本本人の意図さえ超えて映画としての輝きを増すばかりであり、その輝きこそが今日土本作品を見るわれわれを真の〈政治〉に向けて挑発してやみません。複製芸術としての映画の真の可能性は、〈見る〉という孤独で直接性を欠いた営みに徹してこそ初めて開かれるものではないでしょうか。
本演習では、こうした観点から土本典昭の代表作を関連テクストを読みつつ製作順にたどり、発表担当者の問題提起を受け、議論を重ねることで、映画を〈撮ること〉と〈見ること〉の根源的な倫理を問いなおしてみようと思います。したがって、充実した授業とするためには、受講生一人一人の自発的な参加が不可欠となります。

シラバス(授業計画)
[第1回]ガイダンス(資料配布、発表順の決定など);『水俣病=その20年=』──参考上映、解説、討議
[第2回]岩波映画と「青の会」──解説、討議
[第3回]『ある機関助士』──参考上映、解説、討議
[第4回]『ドキュメント路上』──参考上映、解説、討議
[第5回]『水俣の子は生きている』──参考上映、解説、討議
[第6回]土本典昭と「ルーペ論争」──解説、討議
[第7回]『水俣─患者さんとその世界─』(1)──参考上映、解説、討議
[第8回]『水俣─患者さんとその世界─』(2)──参考上映、解説、討議(つづき)
[第9回]中村秀之『水俣─患者さんとその世界─』論(1)──発表と討議
[第10回]中村秀之『水俣─患者さんとその世界─』論(2)──発表と討議(つづき)
[第11回]『水俣一揆─一生を問う人びと─』(1)──参考上映、解説、討議
[第12回]『水俣一揆─一生を問う人びと─』(2)──参考上映、解説、討議(つづき)
[第13回]『不知火海』(1)──参考上映、解説、討議
[第14回]『不知火海』(2)──参考上映、解説、討議(つづき)
[第15回]『わが街わが青春─石川さゆり水俣熱唱─』──参考上映、解説、討議;全体のまとめ

教科書
土本典昭・石坂健治『ドキュメンタリーの海へ──記録映画作家・土本典昭との対話』(現代書館、2008年、3600円+税)。
参考文献
上記教科書とともに、土本典昭『映画は生きものの仕事である』新装版(未來社)はぜひとも読まれるべきです。他の文献は適宜紹介しますが、さしあたり以下を推奨します。『映画芸術』425号(2008年)〈特集 土本典昭の映画史〉、佐藤真『ドキュメンタリー映画の地平』上・下(凱風社)、村山匡一郎編『映画は世界を記録する』(森話社)。
成績評価方法
出席を重視し、発表の出来、討論での発言を加味して総合的に評価します。発表しなかった場合、発表時に無断欠席した場合は単位を与えません。授業期間中に関連作品の上映が行なわれる場合など、適宜レポートの提出を求め、出来に応じて加点することも考えています。
備考
映画にかんする予備知識は必ずしも求めませんが、じっくり腰を据えて見る手間を惜しみ、ただ「社会問題」を語りあいたいだけの人には他にもっと適当な授業があるでしょう。

https://www.wnz.waseda.jp/syllabus/epj3041.htm?pKey=1400153B230120091400153B2314

2009年10月6日火曜日

関連文書#04

※以下に掲載する文書は、『未来』2007年5月号(488号)の小特集「土本典昭の仕事」に掲載された原稿である。冒頭で言及されるインタビュー本は、『ドキュメンタリーの海へ──記録映画作家・土本典昭との対話』として刊行済み。「関連文書#01」参照。


対岸を見る人──土本典昭の「巡海映画」|鈴木一誌

土本典昭さんに、石坂健治さんが入念にインタビューをした本(仮題『土本典昭の仕事 ある記録映画作家の軌跡』現代書館より近刊)のデザインをしている最中だ。近く公開予定の『映画は生きものの記録である』(藤原敏史監督)は、この聞き書き作業と同時進行で生まれた映画作品である。〈映画本〉のデザインをするときに気がかりなのは、スチール写真や撮影スナップなどの存否である。ヴィジュアル面への配慮が誌面を生かしもするからだ。さいわい、土本夫妻の全面協力が得られ、作家が所蔵している膨大な資料から、自由に写真を使えることになった。

某日、年代別に整理されたアルバムやスクラップが、土本宅の机に積みあげられ、ページをめくりながら、これはと思う写真に付箋を貼っていく。あらためてデジタルカメラで複写しにくるのだが、合計何枚の複写になるのかを把握しておきたい。準備に影響するからだ。午後一番からはじめて、四〇〇枚の付箋を使いきり、写真の選定作業が終わったのは、夜七時ころだった。その決して長くはない時間で、数千枚の写真と資料に目を通す作業は、ひとをセンサのような存在にする。ゴツンとした手応えが感じられるときがある。それまで、脈絡をもって捉えられていなかった写真群が見えてくるときもあるが、今回は別の感触だった。写真を見るうちに、土本年譜のなかで「巡映画」として知られる活動の重要さが、腑に落ちた。頭で知っていたことが、写真の塊との出会いで、ひとつの〈体験〉に変異したのかもしれない。「巡海映画」は、一九七七年の項にこうある(『土本典昭フィルモグラフィ2004』土本典昭フィルモグラフィ展2004実行委員会、二〇〇四年)

「8・1 「不知火海・巡海映画班」天草上島より上映を開始。その後約100日間、不知火海沿岸の133集落、65ヵ所で上映会」

土本は、七四年に『医学としての水俣病 三部作』を、七五年には『不知火海』、七六年に『水俣病 その20年』を完成させている。七五年と七六年には、カナダのインディアン居留地での巡回上映におもむいている。水俣病の世界的な拡散に応じた活動だったろう。カナダでの巡回をステップにして、上映活動を、一転して海外から国内に向かわせる。水俣の対岸の天草にである。

「一九七七年のほぼ一年間は不知火海巡海上映活動に没頭したといっていい。映画を撮るのではなく、ただただ上映の旅であった」(『水俣映画遍歴 記録なければ事実なし』新曜社、一九八八年。以下『遍歴』)

巡海映画班は、土本のほかに一之瀬正史、小池征人、西山正啓の四人を基本として編成されていた。アルバムを繰るごとに、これまで見たことのない「巡海映画」のショットが現われる。スタッフが乗るクルマを甲板いっぱいに積載して、こじんまりとした舟が海上をいく。村の集会所だろうか、「海辺の映画会」というノボリがはためき、縁側ではスタッフがポスターやビラづくりに余念がない。炊き出しに駆けつけた石牟礼道子さんの顔も見える。ラジカセをかついで路地を回っているスタッフがいる。呼び込みをしているのだろう。ベタ焼きしか貼ってないページでは、ルーペでひとコマずつを追う。映写設備のない土地を訪れ、準備をし、会場を観客で埋め、また船に乗る。こうした写真が、繰りかえし出てくる。それ自体は作品ではないために、つい副次的に見なしていた上映活動が、反復のなかから、重みを帯びて立ちあがってきた。

帰宅後、土本の著書『わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録』(筑摩書房、一九七九年。以下『旅』)を手に取る。この本まるごとが、「巡海映画」をめぐっている。これまでは、タイトルの「旅」を比喩的に捉えていたのだが、あらためてその表紙に対面すれば、題名が「巡海映画の旅を通じて自身の映画を発見した」と断言していることに気づく。

土本は、「巡海映画」の一九七七年を「不知火海水俣病元年」と名づけている。「巡海映画」の動機は、映画を見せたいということに尽きるだろう。映画作家ならだれでも、ひとりでも多くの観客に自作を見て欲しいと思うはずなのだが、「巡海映画」には、土本固有のベクトルがはたらいている気がする。

「私はいまも生起している水俣病を不知火海に予感するのです。それゆえに、手はじめに映画をもってこの暗黒の浜辺の人びとに会いつづける計画を立てたのです」(『遍歴』)

フィルムに写っている「水俣の」水俣病を、生起しつつある水俣病の渦中にある不知火海沿岸のひとびとが見るのだ。観客に、観客自身を見せる行為と言ってよいだろう。もうひとつの直接性は、撮影の当事者たちが上映する点だ。

「今まで水俣病の情報も伝わっておらず、水俣病を忌みきらっていた不知火海の漁村に、映画をもちこめるのは「作った人間」しかない」(『旅』)

「映画を作ったものが見せたいと言う──この言い分だけが反発者をも黙らせる唯一の抗弁のはずだ」(『遍歴』)

土本は、「映画作家が自分の映画を何十ぺんと観客のなかで見ることの苦痛をなんといえばよいだろう」と告白しながらも、「自分の映画にやすりをかけ」るように観客と向きあう。その上映は、「快楽に転じうる苦役」(いずれも『旅』)とも書く。人びとと自分のあいだに映画が置かれる。自分とみずからのつくった映画がセットとしてまずあり、その映画を多くの観客に見て欲しい、というベクトルとはまったくちがう。人びとと自分が別個に配置されるのだから、当然、その両者のあいだには大きな空洞が出現する。上映とは、その空洞を埋めていく行為である。土本にとっては、動員人数が未知なのではなく、空洞が埋められるかどうかが未知なのだ。目の前に大きな空白を置きつづける、これが記録映画作家・土本の方法意識だろう。空洞を見すえて、魂が駆動をはじめるようすは、「党」についてだが、すでに語られている。

「私は党を私の上に見るのではなく、組織のメカニズムに見るのではなく、私と人びととのあいだに見る」(『旅』)

映画作家・土本は、つねに観客を見ようとしている。観客という〈対岸〉を見ている。ナレーションや図解に工夫を凝らし、分かりやすさにつとめようとしている。分かりやすさにつとめるとは、作者と観客のあいだに横たわる谷間の深さを冷徹に見ているということだ。土本の空洞は、人間関係においてばかりではなく、空間にも転回しうる。

「私はいつも、対岸天草と離島を眺望し、その地点からの視座で水俣病事件の総体を見直したい思いにかられる」(土本典昭「不知火海水俣病元年の記録 第二部1」『暗河』二五号、一九七九年)

水俣にいながら対岸を望見し、こちらとあちらのあいだに広がる不知火海を見ている。その不知火海の底には、有機水銀を含んだヘドロが四百数十トン、スプーン一杯分も掬いとられることなく堆積している。チッソがあって繁栄する都・水俣に対し、天草はつねに周縁だった。〈水俣=中心←→天草=周縁〉との構図は、さまざまに変化する。たとえば、水俣の魚は汚染しているが、天草の魚は清浄だ、との対比だ。この図式のなかで、天草の魚は商品的な需要を呼ぶのだが、それゆえ、天草からは水俣病患者を出してはならない、との暗黙の了解がみちびかれていく。

「水俣病には、何が水俣病であるかの“合せ鏡”がない。水俣の多発地帯ですら患者と非患者は、お互いに身体の異常を話しあい、手探りで水俣病像を学びあってきた」(『旅』)

特定の病像をもたない水俣病の〈見えなさ〉が、天草に水俣病者を発見しない。だが、天草の離島に在住する女性の毛髪から、記録史上世界最高の水銀値が検出される。水俣で捕れた魚も天草の魚も、不知火海を通路とし、回遊している。ヘドロを呑みこんだ不知火海は、これからも病を誘発する空洞であり、「水俣病汚染地域の“暗黒部”といわれる水俣の対岸・天草や離島」(『旅』)は、水俣病の情報が伝わっていないという意味でも、水俣病と名づけられない水俣病汚染地域という点でも、空白地帯である。つぎつぎと空洞を見出していく土本の軌跡は、〈非中心〉的だと言ってよいだろう。こうして、水俣の対岸という空ろな穴が映画によって埋められようとする。

「水俣から一定範囲(今回半径三十キロ)内の漁家集落は順次一つのこらず上映することにした。スピーカーで触れて歩き、チラシを一戸のこらずまき、映画会がそこでの注目すべき出来事になるように、そして子供も大人も半病人も、一夕、そこで水俣病事件と病像を知ってもらえるようにプランをねった」(『遍歴』)

「巡海」するにあたって、土本は「一ヵ所の空白をも作ってはならない」(『旅』)とする。これは、完璧主義からというより、空白を埋めようとする「巡海映画」が空洞をつくってどうするのだ、との言表にほかならない。政治や行政が生みだした空白を、表現活動で満たそうとするかにみえるが、そうではない。空白を、空間へと見出すのだ。

「水俣から御所浦に医学のスポットが当るまでに十七年、御所浦の一角の外平にその微光が射すまでに更に五年を要したのである」(『遍歴』)

「医学のスポットが当るまで」の時間差を、「巡海映画」の練られた一筆書きのような行程プランが逆説的に描きだすことになる。強いられた空白に、表現者によって認識された空白が対峙するのだ。「巡海映画」行をともにし、その助監督を長くつとめた小池征人が、土本作品について、「映画として成立するんだけども、それだけでは満足しない表現を映画に残す」(小池征人・鈴木志郎康「土本典昭の方法論」『日本ドキュメンタリー映画の軌跡 70年代』山形国際ドキュメンタリー映画祭東京事務局、一九九五年)と指摘する。微細な「不純物」が残されている、とも言う。さらに、「巡海映画」の上映では、「一度映写機を止めて、逆回しして、またそこを見せていく」といった「普通、表現やってる人はそんなことしない」ことまでする土本像を伝える。土本自身も「活動弁士の方法をとることにした」(『遍歴』)と明記している。

「それだけでは満足しない表現を映画に残す」とは、そこに観客の視線を呼びこむことだし、映画としてだけの成立に拘泥しないのだから「不純物」を含んでいる。「不純物」を絶妙に配合するには、恐るべき編集的手腕が必要だろう。空間に、完結した映画を注ぎこむのではない。作り手と観客それぞれのもち寄った空洞が交流するのだ。作り手と観客が交通する微細な通路が無数に通っている。見る者は、そのフィルムから単一の解答を手渡されるのではなく、問うことをはじめるのだ。土本作品を見ることは、「元年」であり、あらゆる観客は当事者である。

「巡海映画」は、「全住民(赤ん坊から出稼ぎ不在者も含む登録人口)の三〇パーセントから、離島のように六〇〜七〇パーセントという、異常なまでの動員率の高さを引きだし」(『遍歴』)て、のべ入場人数は八四六一人にのぼったと聞く。そのいっぽうで、あらたな空白が生まれる。小池は、土本あての私信にこう書く。「映画を通して人びとと接触し、その後、去ったあと、地元に残された人びとのなかに残る心の波紋を誰が責任をとるのか」(『旅』)。土本の映画を見るとは、「心の波紋」を引き受けることだ。映画から運動がはじまる。

2009年10月4日日曜日

関連文書#03

※以下に掲載する文書は、東京国立近代美術館フィルムセンターにて今夏開催された「ドキュメンタリー作家 土本典昭」展 (7階展示室、2009年6月30日─8月30日)のギャラリー・トーク(2009年8月1日)として読まれた原稿である。採録ではなく用意原稿であり、当欄での発表にあたっては若干の改訂がなされている。なお、文中で言及される「京橋映画小劇場」での上映はすでに終了している。また、S・クラカウアー『映画の理論』は翻訳の計画が準備中と仄聞している。


『ある機関助士』と土本典昭の初期作品
|中村秀之

0|はじめに

こんにちは、中村秀之です。このような画期的な展示が行なわれている会場で映画作家・土本典昭の仕事について話をするという思いがけない特権を与えていただきまして、岡田秀則さんを始め、この企画の関係者の皆様にお礼を申し上げます。

私は残念ながら生前の土本典昭氏とお話しする機会がなかったのですが、今日は「土本さん」と呼ばせてください。観客として土本さんのフィルムを繰り返し観て、聴衆として何度もトークを聴いたことがあっても、じかにお付き合いするチャンスはありませんでした。だからでしょうか、ここに展示されているノート類や「仕事部屋」は、私にとっては、ご本人の不在よりもむしろその存在を強く感じさせるものです。たとえば直筆のノートがあります。『海に築く製鉄所』当時の手帖に大江健三郎の「死者の奢り」に対する批判的な感想が書き付けられているのを目にしますと、この頁を選んで展示したセンスの良さに感心すると共に、やはり、それを書いた人のペンを運ぶ手の動きと心の動きが感じられてなりません。文面からするとここでの心の動きは怒りのようですが、それはどんな怒りだったのか…。また、展示の最後に置かれた「仕事部屋」にはちょっとつまらない疑問を抱いてしまいました。長方形の座卓の短辺、短い辺に座椅子が置かれて展示されています。ふつうは長い辺の方に座るんじゃないだろうか、これではちょっと窮屈なんじゃないか、と、ふと余計な心配をしてしまったのです。その後、部屋の中での座卓の位置や、この座卓が主に執筆や切り抜きに使われていたので別に支障はなかったといったということなどについて説明を伺い、かつてそこに座っていた人の姿や身ぶりが、ようやくその場所にすぅっと収まってゆくような気がしました。前回のトークで石坂(健治)さんが言及されていた『原発切抜帖』の、あの鈍く光るよく切れそうな、大きな鋏が脳裏によみがえったりもしました。

ノートにしても机にしても、今は存在しないけれど〈かつてあった手の動き〉を感じさせてくれます。仕事という形を残したその身体や心の動きに想いが向かいます。このような空間でその人の仕事について語ることには何かとても不思議な感じがいたします。

しかし、〈かつてあった身体〉と言えば、実は映画こそ、独特なやり方で、その〈かつてあった身体〉の運動を記録し、時の流れや社会的な従属からその身体を請け戻す、あるいは救出する力を持つのではないでしょうか。そして土本さんこそ、とりわけ労働と身体、身体と仕事や活動の関係に目を凝らして映画を撮り続けたドキュメンタリー作家でした。

本日は「『ある機関助士』と土本典昭の初期作品」というテーマをいただきましたが、労働する身体を映画的に請け戻すこと、救出すること、あるいはその名誉を回復することといった観点から、初期の作品のいくつかのポイントについてお話ししてみたいと思います。

1|土本典昭の「初期」

ところで、土本典昭の「初期」とは何時のことでしょうか? とりあえず「中期」や「後期」にまで責任を取らなくても良いとすれば、やはり『留学生チュア スイリン』(1965年)の前まで、『ドキュメント 路上』までを初期と見なすのが妥当だと思われます。『留学生チュア スイリン』は初の自主製作作品というだけでなく、土本さん自身が「僕の映画としても転換点だった」と語ったフィルムです。国費留学生の身分を取り消された一人の留学生の復学要求の闘争に寄り添いながら、何が起こるか予測できない状況のなかで、出来事の偶発性に対応してキャメラを廻さなければならないというフィルムでした。反対に、これ以前の作品は、従来の「記録映画」のスタイル、つまり、程度の差はあれ事前に書かれた脚本にもとづき、しばしば意図的な再構成の「演出」が施されたものでした。

土本さんは岩波映画製作所に入る前に羽仁進監督の『教室の子供たち』を観て衝撃を受け、記録映画を志すようになったと語っていますが、実際には、土本さんが初期に撮ったフィルムは現実を再構成して演出する従来型の「ドキュメンタリー」でした。『教室の子供たち』のようなタイプではなく、『教室の子供たち』と同時期の岩波映画の作品で非常に高い評価を受けた『ひとりの母の記録』のような作品でした。たとえば『ひとりの母の記録』に出てくる農村の一家は、実際には別の家族から寄せ集めた擬似家族だったということで、その点が一部からは批判されたりもしたのですが、『ドキュメント 路上』のタクシー・ドライバーの家族も同様の架空の家族だったわけです。

しかし、そのような従来型の再構成的な演出のスタイルにおいても、土本さんのフィルムでは、労働する身体の生き生きした動きをしっかりと見据えるまなざしは際立っています。

2|初期の演出作品:「年輪の秘密」と「日本発見」

土本さんが最初に演出した作品は「年輪の秘密」と題されたテレビ用フィルムのシリーズでした。日本の伝統芸能や伝統工芸を紹介するシリーズで、日本鋼管の委託、岩波映画製作所の製作、フジテレビが放送しました。土本さんはシリーズ中7本を演出しました。

伝統工芸の紹介がテーマなのだから労働する身体の生き生きした動きが捉えられていて当然だろう、と考える人もいるかもしれません。しかし、同じシリーズでも、やはり演出家や撮影者によって少しずつスタイルが違うのです。職人が仕事をしている光景では基本的に3つの要素が存在します。まず、手あるいはその他の身体部位、次に道具、そして品物として仕上げられるべき材料です。たとえば、手、鉋、材木といった組合せですね。しかしこれらの3つの要素をどう撮るか、画面でどう配置するか、これは映画の作り手によって同じではありません。たとえば、あくまでも職人が作る品物を画面の中心に据えて、手や道具は二の次というスタイルがあります。「浮世絵の復刻」という作品がそうです。構図もフォーカスも図柄を見せることが中心で、手や道具はフレームの端に置かれたりフォーカスから外れたりしていることが多い。しかも、作業の途中で頻繁にカットを切り換えます。あるいはまた、道具が中心である場合もあります。たとえば「寺大工」という作品で、槍鉋(やりがんな)が紹介される場面では、道具を扱っている手はフレームの隅に置かれ、しかも、キャメラはカンナの動きを追いかけて前後に動くので、大工さんの身のこなしはよくわかりません。

土本さんが演出したフィルムでは、「浮世絵の復刻」や「寺大工」と異なり、手、道具、材料ないし品物の三者、あるいは手とそれが加工する素材の二者が、ほぼ均等に画面上に配置されるか、むしろ手が中心を占めていて、手と道具と材料の関係、接触面での手の動きをしっかりじっくりと見せてくれます。「久留米がすり」という作品の「手括り(てくびり)」という作業での指と糸、「経巻き(たてまき)」という工程で経糸を巻き取ってゆく手の動き。また、「有田の陶工たち」という作品では、粘土に白くまみれた両手が器の形を整えてゆくのを正面からのクロースアップで捉えた直截な画面に目を瞠ります。面白いのは、このフィルムは土から器までの全製作工程を見せるにもかかわらず、ラスト・ショットでもう一度、轆轤で回転する土を成形している手のクロースアップを見せることです。土本さんはどこかで「職人芸に見入ってしまう」と語っていましたが、まさにこのショットにはフィルムの作り手のそのような関心が如実に現われています。

しかし最もスリリングなのは「江戸小紋と伊勢型紙」(1960年)でしょう。型紙を彫る彫刻師たちの指と爪、刃物、厚紙という三つの要素同士の関係がなまなましく捉えられています。撮影は清水一彦です。錐彫りでは、片手の指先に添えた錐を別の手でリズミカルに回転させて直径1ミリたらずの円をあけてゆく過程がじっくり撮られています。と思うと、錐の先の超クロースアップの後に、突然、笑顔で風を切るオートバイの若者のクロースアップが続いたりします。唖然とさせられる編集ですが、この若者は伝統技術の後継者なのです。また、突き彫りでは、先の鋭い小刀一本で模様を切ってゆくのを、長く伸ばした中指の爪が小刀の刃先を支えています。

こうして、手、道具、材料の三者を、均等に、そして、それらの関係、それらの接触面での動きをしっかりじっくり見せる。土本さんの演出では、端的に画面のなかで手が占める面積が多く、手のアクションを鮮明にとらえているのですが、とりわけその皮膚が道具や素材と触れ合う様子が生々し、それが観ていて心地良いという特徴があります。

土本さんが次に手がけるのが「日本発見シリーズ」別名「地理シリーズ」の6本です。富士製鉄の委託、岩波映画の製作、NETの系列で放送されました。「岩波写真文庫」の「新風土記」シリーズがもとになっていて、全体として「地誌」というコンセプトの上に成り立っているので、「年輪の秘密」のように労働する身体を集中的に取り上げられるシリーズではなかったわけですが、それでも述べてきたような土本作品の特徴が随所に見られます。

たとえば「佐賀県」(1961年)という作品で、有明海の干拓地のある貧しい農民が、副収入を得るためにムツゴロウを獲りに干潟に出る場面は鮮烈です(キャメラは鈴木達夫)。サーフボードのような板に左ひざを乗せ、右足で干潟の泥を蹴って進む。キャメラはときに超ロング・ショットで、またときに農民の真後ろにつき従い、泥の中に片足を突っ込んでは蹴って前進する農民を写し続けます。干潟の泥とその上を滑る板を見ていると「有田の陶工たち」の最後、轆轤で回転する土とそれを成形する手のショットを思い出したりもしますが、荒涼と広がる干潟で獲物を求めて独り滑走する農民のよるべない姿には、後の『水俣 患者さんとその世界』におけるきわめて対照的な蛸取りの場面を想起させられます。

3|レジスタンスとリデンプション

ところで、前回7月11日のギャラリー・トーク、私も拝聴しましたが、とても興味深かったのは、『ドキュメンタリーの海へ』における土本さんの発言の事実との食い違いを、お姉さまが指摘されたことでした。土本さんの幼少期に土本家は貧しかったのか、大学を除籍されたときお父様は息子を勘当したのか、この2点が問題だったと記憶しています。しかし、仮に歴史的事実と食い違っていても土本さん本人の心情にとっては真実だったということでよろしいのではないでしょうか。その点、『ドキュメンタリーの海へ』という本の価値が損なわれることはまったくありません。むしろ、インタビューのおかげで、ご本人の思いと資料的に確認できる事実とをつきあわせ、土本さんとその時代について、いっそう理解を深めることができることでしょう。

たとえば、今、私が気になっていることの一つは占領期におけるレジスタンス文学の受容についてです。インタビューのなかに、土本さんが「幻視の党」という考えを抱いたのがフランスのレジスタンス文学を読んだからだと語っている箇所があって、そこで帆足計という人物の名前を出しています。しかし、占領期にレジスタンス文学を紹介した代表的な人物となると、淡徳三郎や小場瀬卓三あるいは加藤周一といった人たちです。帆足計がそういう仕事をしていたのかどうか……。もっとも、帆足計は戦後の日中交流史の重要人物ですから、ひょっとすると日中友好協会に勤めた土本さんが個人的な交流のなかでレジスタンス文学を教えられたということはあったかもしれません。この点は、どなたかご存知の方がいらっしゃったらご教示をお願いしたい点です。

青年期にレジスタンス文学をどう読んだかが気になるのは、労働する身体に向けられる土本さんのまなざしが、土本さん流の映画的なレジスタンスの方法でもあったのではないかと思うからです。先ほど、〈かつてあった身体〉を映画的に請け戻すこと、救出すること、あるいはその名誉を回復することといった表現を用いました。債務や抵当を弁済する。質に入れていた品物を請け戻す。償還する。名誉を回復する。罪を贖う。身代金を払って人質を救出する、実はこれらの動詞はすべて「redeem」という一つの英単語の複数の日本語訳です。名詞形は「redemption」。近年、再評価の機運が高まっているジークフリート・クラカウアーという思想家が晩年の著作『映画の理論』の中心に据えた概念です(まだ邦訳がないこの本が早く日本語で読めるようになるといいのですが……)。

ともあれ、生きるための労働という営みをその必要という制約から救出すること、時間の流れにさらわれた身体の活動を請け戻すこと、あるいは社会的な支配・従属の関係のなかで剥奪された仕事の名誉を回復すること、このような重層的な意味を持つ潜在的な力が映画にはあるのではないか。言い換えれば、身体と道具と素材が触れ合って何かが作られたり何事かが達成されたりする、そのような営みとしての労働を喜びに満ちたものとして〈映画にする〉、つまり公共的な水準での活動という形で分有させる、そんなことができるのではないか。かつて土本さんは、水俣での映画づくりが可能になったのは、「仕事とも道楽とも生活とも闘争とも分かちがたい姿勢」を熊本の水俣病を告発する会から学んだからだ、と書いたことがあります。まさに映画にはそのような潜在力があるのではないか。『ある機関助士』は、まさにそれを実現したフィルムではないでしょうか。

4|『ある機関助士』(1963年)

さて、『ある機関助士』です。

1962年5月3日の三河島事故、貨物列車の脱線に次々と旅客列車が巻き込まれて160人もの死者を出した大惨事の後、国鉄は自動列車停止装置(ATS)の導入による安全対策をテーマとするPR映画を作ろうと企画コンペを行ないました。しかし、岩波映画製作所は、あえてATSを取り上げずに他ならぬ三河島事故が起きた常磐線の動力車乗務員を描いた土本さんの脚本でコンペに挑みます。その頃を回想して土本さんが語っている次の言葉は非常に重要だと思います。

「三河島事故の特徴というのは、運転者(運転士と運転助士)の信号に対する注意義務違反と結論づけられたんです。事故の原因はそういう過失にあると。一部の新聞で労働過重だという論評はあったけれども、メインは過失であると言われている中で、交通安全に努力している国鉄というテーマで撮ってくれというわけです」(『ドキュメンタリーの海へ』81頁)

土本さんは大事故が起こった同じ路線で安全を描かなければダメだと考えて脚本を書き、ロケハンにあたっては田端機関区の労働組合を訪れたと言います。

「その田端機関区の人々が罪に問われているわけだから、「よく来た」っていうことで、下にも置かないもてなしでね。僕は「機関室に乗りたい」と言ったら、「どうぞ」っていうわけで乗せてもらって上野−水戸間を往復した。そのおかげで大体ディテールは把握したんです」(『ドキュメンタリーの海へ』82頁)

ここで語られている当時の状況、事故の原因や責任にかんするマスメディアや世論の論調はしっかり頭に入れておかなければいけないでしょう。マスメディア、そして世論は、十分な調査もされていない段階で運転者の過失であると性急に断定し、その責任を追及しようとしました。たとえばニュース映画、『朝日ニュース』全国版No.878「死者157人の大惨事」(1962年5月9日)のナレーションなどは初期の報道の典型例でしょう。

「原因は貨物列車の機関士が信号を見間違えたのが第一で、発煙筒を焚いて上り電車の出発を止めなかったなど、二重三重の不手際がこのような大惨事を引き起こしたのです。〔…〕しかし、輸送量が増大してもそれに伴う保安設備があれば、このような事故は防げたのではないか、と言われています。一刻も早く、国鉄の緩んだ気持ちを引き締めて、二度とこうした事故を引き起こさないよう立て直してもらいたいものです。」

このような一般の論調に対して、国鉄動力車労働組合(動労)は機関紙『国鉄動力車』やパンフレット『列車の安全 三河島事故を二度と繰返さないために』(1962年6月)などで反論を展開し、過密ダイヤのもとでの定時運転重点主義が安全確保の障害となっていることや、安全のための施設改善をなおざりにして個々の労働者に過度の負担を押し付けていることなどを批判していました。そして、8月には乗務員の過失について裁判が始まります。

映画『ある機関助士』は、常磐線の動力車乗務員の「何も異状のない」一日の業務を描いています。しかし、過密ダイヤの危険性や定時運転主義のプレッシャー、信号や踏切が多いという設備上の問題点、信号の誤認の可能性、運転士の肉体的疲労や緊張などを画面上の随所で示唆し、さらには多重事故防止の訓練をユーモラスに再現して風刺するなど、当時の論争的状況に対して映画的に介入していることは間違いありません。このフィルムにおいて映画作家土本典昭はすでに〈加担〉しているのです。同時に、このフィルムは何といっても動力車労働者の名誉回復のフィルムであります。ただし、それは、乗務員が日々安全のために努力していることを広報するといった、いわば対抗的なPR映画になっているという意味ではありません。

例えば、『ある機関助士』のオープニングを、やはり機関士が主人公で蒸気機関車が走る場面で始まる『獣人』(1938年,監督:ジャン・ルノワール)のオープニングと比較してみましょう。『獣人』の冒頭もきわめて緊張感に満ちた優れた場面です。しかし、『獣人』の機関士と機関助士には労働する身体の喜びはありません。二人の乗務員は言葉を発することもなく、必要があれば口笛を吹いて合図するだけ、お互いに仕事をしながらどこか上の空といった風情、機関車は勝手に爆走しているかのようで、そのことが端的に恐怖さえ感じさせます。二人が蒸気機関車を運転しているというよりも、驀進する機関車のオートマティックな動きを乗務員が辛うじて制御しているといった趣があります。これは主人公が遺伝的素質という本人に抗えない力のために殺人を犯すという物語にも対応しています。

それに対して『ある機関助士』は、安全か危険か、勤勉か怠惰かといった二項対立を超えて、映画そのものが人間と機械が一体化した喜ばしい運動になりえているがゆえに、労働する身体の名誉を回復するフィルムとなったのでした。このフィルムが一貫して圧倒的な支持を得てきている理由は何といってもその点にあるのでしょう。二人の運転士はお互いに頻繁に確認の声を交し合い、きびきびした身ぶり手ぶりで機関車を走らせています。人間と機械とが一体化しているからこそ、しばしば隣の線路や線路際に向けられる視線が効果的なのです。『獣人』には機関士を正面から撮る(客観的な)ショットはありますが、逆に『ある機関助士』の視点は運転士に寄り添い、だからこそ、線路際という帯状の場所が、いわば人間と機械からなる高次の身体にとって敏感な皮膚とも呼べる領域となっているのです。機関士が車体の熱をたしかめるために手を当てて様子を見る場面などにも皮膚の主題が見て取れますが、それだけでなく、人と機械とが一体化しているがゆえに、いわば運動の皮膚、接触の領域とでも呼ぶべきものが形成されるのが観ていて面白い点です。

5|「東京都」(1962年)と『ドキュメント 路上』(1964年)

「初期土本」の輝かしい成果が『ある機関助士』における労働する身体と機械の共演であるとすれば、初期の終わりを主題的にしるしづけるのは、喜びを奪われた労働する身体をとらえた二本のフィルムということになります。すなわち、「〈日本発見シリーズ〉東京都」(1962年)と『ドキュメント 路上』(1965年)で、奇しくも、この二本ともスポンサーから拒否され、「お蔵入り」したのでした。

「東京都」は、地方出身者の苛酷な労働によって支えられている大都市東京を見つめています。強烈な印象を与えるのは、大食堂の従業員の休憩時間、狭い部屋に押し合いへし合いしているウエイトレスたちが畳の上にいっせいに脚を投げ出しているその素足の列です。ここには長時間労働による疲労の主題がワンショットで力強くつかみとられています。

『ドキュメント 路上』は、「大都会そのものが殺虫装置」だと土本さんが言うように(『ドキュメンタリーの海へ』96頁)、端的に仕事の喜びが得られない環境での労働と身体のあり方を問題にしているフィルムです。大都市の交通システムに閉じ込められた喜びなき身体のストレス、疲労、不安、恐怖が鋭いモダニズムで描出されます。『ある機関助士』とは全く対照的に、運転手が機械と一体化して喜ばしい運動を形成することなどありません。むしろ、渋滞や歩行者や事故によって頻繁に停車や徐行を強いられ、なかなか前進することさえできないのです。また、長時間座ったままの仕事なので、ドライバーたちは胃下垂に悩まされたりもしています。

けれど、土本さんは本人も繰り返し語ってきたように「快楽」の人ですから、そのようなフィルムにも喜びの感じられる場面は挿入されています。『ドキュメント 路上』の洗車の場面、運転手が自分の手で車を洗います。タイヤ、ホイール、フロントグラスがホースからほとばしる澄んだ水で洗われてゆく、その水の感触の心地よさ……。ここでは車を走らせている場面でない点が重要です。この場面を観ると、私は「〈日本発見シリーズ〉鹿児島県」(1961年)の黒豚を洗う場面を思い出してしまいます。豚の背中をたわしで熱心に洗い、水をかけて皮膚の汚れを洗い落とす。洗われる豚自身も気持ち良さそうに鳴いていて、いささか複雑な気分にさせられる場面ではあります。

とはいえ、『ドキュメント 路上』は喜びなき労働の〈声〉で終わることになります。タクシー会社の構内で、集団でブレーキのテストをする運転手たち、タイヤと地面が擦れ合う強烈な音、これは喜びなき街での労働を強いられる運転手たちの怒りの叫びであるのかもしれません。

6|おわりに

そして、『留学生チュア スイリン』で新しいスタイルを身につけた後の土本さんが赴くことになるのは、まさに労働する能力を損なわれ仕事をする喜びを奪われた身体たちの世界、すなわち水俣でした。ここからはもはや「初期」の話ではなくなります。私の話も終えなければなりません。ただ、確かなことは、その後の土本さんの映画から労働する身体の喜びが消えることがなかったということです。『水俣 患者さんとその世界』の尾上老人の蛸取りの場面の素晴らしさについては今さら言うまでもありません。それに土本さんは『海とお月さまたち』(1980年)のような生命と労働の詩も残してくれたのです。もうすぐフィルムセンターでは「京橋映画小劇場 No.14 ドキュメンタリー作家 土本典昭」の上映が始まります。初期のテレビ用作品は含まれていませんが、この機会にまた土本さんのフィルムをできるだけ多く観たいと思います。皆さんもご存じのように、それは端的に喜びの体験にほかならないからです。以上です。ありがとうございました。

2009年10月3日土曜日

山猫とは?

山猫(wildcat)の定義。
山猫通貨を発行し、山猫航空に乗り、山猫油井を掘り、山猫争議を闘いましょう。

Noun
1. an exploratory oil well drilled in land not known to be an oil field
2. a cruelly rapacious person
3. any small or medium-sized cat resembling the domestic cat and living in the wild

Adjective
1. outside the bounds of legitimate or ethical business practices; "wildcat currency issued by irresponsible banks"; "wildcat stock speculation"; "a wildcat airline"; "wildcat life insurance schemes"
2. without official authorization; "an unauthorized strike"; "wildcat work stoppage"
3. (of a mine or oil well) drilled speculatively in an area not known to be productive; "drilling there would be strictly a wildcat operation"; "a wildcat mine"; "wildcat drilling"; "wildcat wells"

(WordNet 2.0 Dictionary)

2009年10月2日金曜日

関連書誌#01



『映画芸術』425号(2008年秋号)
特集|土本典昭の映画史

[座談会]
上野昂志×鈴木一誌×山根貞男 「光る映画」を求めて──土本典昭の映画史
[採録]
土本典昭
 「彼は事実よりも、事実らしいことが好きなんで……」──小川紳介追想
[対談]
大津幸四郎×井口奈己 キャメラの前で、存在が開かれる
[論考]
筒井武文 土本典昭の編集術──初期作品を中心として
佐藤雄一 徴候としての水面──表情を漁るひと土本典昭
中村秀之 『ある機関助士』、あるいは皮膚のエチカ
[クロスレビュー]『水俣 患者さんとその世界』 木村有理子佐藤有記船曳真珠
[インタビュー] 久保田幸雄川上皓市
[寄稿] 吉田司荒井晴彦中谷健太郎
[書評] 岡田秀則(土本典昭・石坂健治『ドキュメンタリーの海へ』)
[特別インタビュー] 馮艶(フォン・イェン)

※責任編集:土田環・中村大吾
※全38頁の特集。税込1500円。発行:編集プロダクション映芸


http://eigageijutsu.com/article/108867788.html

関連文書#01

潮をつかまえた本|岡田秀則

【書評】土本典昭・石坂健治『ドキュメンタリーの海へ──記録映画作家・土本典昭との対話』


まずは書誌学から。ドキュメンタリー作家・土本典昭をめぐる書物は決して少なくはない。代表的なものだけで以下の本が挙がる。

『映画は生きものの仕事である──私論・ドキュメンタリー映画』(未來社、1974年、新装版2004年)
『逆境のなかの記録』(未來社、1976年、新装版2004年)
『わが映画発見の旅──不知火海水俣病元年の記録』(筑摩書房、1979年)
『水俣映画遍歴──記録なければ事実なし』(新曜社、1988年)
『ドキュメンタリー映画の現場──土本典昭フィルモグラフィから』(現代書館、1989年)
『ドキュメンタリーとは何か──土本典昭・記録映画作家の仕事』(現代書館、2005年)

最初の2冊は、監督本人によるさまざまな文章の集成である。映画を作ることと見せること、その活動の狭間から具現化してゆく土本の思想の道筋を示したドキュメンタリー分野の先駆的な著作といってよい。これらに先立つ日本のドキュメンタリー作家自身の著書で、現在でも読む意義を強く感じさせるのは、羽仁進と初期の松本俊夫の本ぐらいである。近年新装版が出た土本の2冊は、ドキュメンタリー映像の製作が身近になった今こそ揺るがぬ価値を確立したし、さらに、水俣の継続闘争の中で土本の仕事はいくつかの書籍として顕彰されてきた。個人的には、初めて「水俣」シリーズに出会った頃に読んだ『ドキュメンタリー映画の現場』が印象深いが、それらの書物の背後にいつも感じるのは土本映画の製作母体となってきた青林舎やシグロの篤実で温かい“眼”であった。

後期の本でとりわけ焦点化されていたのは、土本のフィルモグラフィではないだろうか。『ドキュメンタリーとは何か』などは、プロダクション周辺の有志の手で2004年に実現した「土本典昭フィルモグラフィ展」の記録だが、筆者はいまだかつてこの「フィルモグラフィ展」という語を他で見たことがない。ここには、レトロスペクティブ(回顧)ではなく、終わらない闘いを踏まえて、その時点での新たな作品録を呈示するという現在性への志が込められていると思う。

だから、筆者がこの『ドキュメンタリーの海へ』を手にした時、まず開いたのは巻末のフィルモグラフィであった。作品のデータという点では、実はいちばん詳細に記述されているのはフィルモグラフィ展のパンフレット(2004年)なのだが、『ドキュメンタリーの海へ』のフィルモグラフィには、この書物全体を流れる水面下の「潮」と共振するようなうねりのエネルギーを感じる。映画とテレビとコマーシャルとスライドと著書、当然ながら作家本人は、個々のそうした仕事に対して幾分の温度差を感じていたはずだ。だがそれらを同時に扱うことは、ひとりの映画作家の「輝かしい」履歴を紹介するだけでなく、それぞれの時代の矛盾を受け入れつつ、それを鋭利な批判へと転化させる思考の道のりを示すこの書物のあり方とパラレルなことだろう。

本書の中心をなすのは石坂健治氏によるインタビューであるが、その中身も、これまでの本とはまた違った、悠然とした時の流れを感じさせる。まず、これまでクロースアップされてこなかった幼少時代、学生運動期や山村工作隊の時代にまで遡ったことは画期的で、例えば安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』に小さく記されていた「早大細胞」土本の姿もようやく明らかになったわけだが、この本の魅力はもちろんそれだけではない。インタビュアーの資質によるのだろう、個別の作品の底をゆく潮の動きをゆっくり大きくつかむような感覚がとても心地よい。またこの書物に独特の豊かな相貌を与えたのが、写真をはじめとする図版類の充実である。例えば『水俣 患者さんとその世界』のアルバム頁には、「上映会の収支集計表」が見開きで掲載されている。大半の土本映画は、製作から上映までの過程をひっくるめて完結するのだから、こうした資料の登場によって読者は土本の映画世界が持つ“温度”にも触れることになる。

いわば「永遠」の語さえ似合う、調和の感覚に満ちた書物だと思う。しかしそれだけに、この本の初めてのお披露目が監督との「お別れの会」であったことは無念の一語だ。だからといって、永遠の隣にある言葉は死なのか、などと簡単には言いたくない。『医学としての水俣病』で、魚の摂取量を控えるようにと説く医学者に、それでも人々は魚を食べるんだ、と食ってかかった土本の声が忘れられない。そんな土本の声も、この本の中で生きている。

土本典昭・石坂健治『ドキュメンタリーの海へ──記録映画作家・土本典昭との対話』、現代書館、2008年、3600円+税

※『映画芸術』425号(2008年秋号)に掲載。

関連文書#02

(「土本典昭の映画史」編集後記)

もしかしたら世代的な慣用にすぎないのかもしれないが、お目にかかりお話をうかがう機会があって印象深かったのは、二人称がいつも「あなた」だったことだ。そういえば、画面内に(時に声だけで)登場する際も「あなた」という二人称で相手に呼びかけていた。「ドキュメンタリーの本性はコミュニケーションである」と語ったその作家の、「人と出遭う事業である」ところの映画制作の一断面を垣間見た気がした。その現場の思考と実践こそが、あの人のあの表情を、この人のこの言葉を導きだし、そのシンギュラリティを輝きの内にフィルムへと収め得たのは確かなところだろう。つまり、映画を見ながら、その人、土本典昭の表情が、身体が、実存が、否応無く想起させられる……。さて、その人が不在となった今、哀悼の心とともに、しかし、私たちが糧としうるのは、映画は転生しつづける、という確信以外に無い。ここで眼目とすべきは、不在を徴づけることにはなく、未生なるものとの緊張関係を維持することであり、ゆえに、本特集の編集にあたっては「追悼」という意識をできるかぎり排除した。そう、フィルムが、言葉が残っている──呼び掛けるその人の声の彼方に(否、此岸に、と今や言うべきか)。そのことへの感謝が、この編集作業を支えた。[以下、謝辞は省略](中村大吾)

※上掲の文書は、『映画芸術』425号の特集「土本典昭の映画史」の責任編集者による、掲載されなかった編集後記である。本企画の企画者のステートメントのひとつとして、筐底より抽き出し、ここに残しておく。