2009年10月11日日曜日

急告

山形国際ドキュメンタリー映画祭2009自主講座

【山猫争議!】
土本典昭の海へ


2009年10月11日(日)22時─24時
香味庵1階奥(山形市内)

ツチモトを忘れるな。記録映画作家・土本典昭(1928─2008)。その偉業をヤマガタの地で顕彰するのは、ドキュメンタリー映画を愛する者の務めであろう。これは追悼シンポジウムではない。遺された映画のいまだ見尽くしえぬ「光」を、映画の歴史・映画の現在へと召還するための、ワイルドキャットなアクションである。その光にみちびかれ、山形の秋の一夜、幻視の党が編まれ、無償の言葉が放たれるのだ。

山根貞男
上野昂志
鈴木一誌
諏訪敦彦
石坂健治
(予定)
中村秀之
藤井仁子


*通訳無し、日本語のみ。
*聴講無料。参加退出自由。カンパ歓迎。

企画:岡田秀則・中村大吾

──以上、転載歓迎。




  
[クリックで拡大] デザイン=鈴木一誌




土本典昭はまぎれもなく映画作家だった|蓮實重彦

ドキュメンタリーとフィクションという二つのカテゴリーは、映画にとって何ら本質的な差異をかたちづくるものでない。問題は、それが映画として成立しているか否かにかかっている。まだ映画評論家として立つ心構えもなかったわたくしにそのことを教えてくれたのは、土本典昭にほかならない。

実際、土本典昭は、まぎれもない映画作家としてわたくしの前に姿をあらわした。『水俣 患者さんとその世界』(1971)を持ってヨーロッパを回っていた彼とパリのシネマテークで出会ったとき、初対面のわれわれは、終映後にトロカデロのカフェで何時間も話し合い意気投合した。あのショットはすごい、あれはいったいどう撮ったのかという素朴な問いに、彼は、現場の興奮を再現するかのように熱気をこめて答えてくれた。ドキュメンタリー作家にありがちな社会的な責任で身をこわばらせることなく、撮影と編集にまつわる真の悦びと不安とを吐露してくれたのである。

映画について書くことに必要な視点と踏まえておくべき技術とをわたくしに伝授してくれたのは、忘れがたいあの夜の土本典昭の身振りであり言葉である。そうとあからさまに口にしたことはなかったが、彼は気づいてくれていたと信じている。



土本典昭の倫理|四方田犬彦

土本典昭という、生涯無転向のドキュメンタリー作家の足跡を辿ってみたとき、気がついたことをいくつか記しておきたい。彼の人生に繰り返し登場する、倫理的旋律のことである。

直接に政治的な発言をしないこと
これはマレーシア留学生から水俣まで、ともすれば新左翼系の学生が闘争の契機とする状況のなかに積極的に身を晒していた土本にとって、重大かつ決定的な選択であったように思える。左翼の言説が頽廃に陥ったときにしばしば見せる傾向として、現下のある事件を安易に他の事件と連動させ、状況の個別性を軽視して全体状況とやらを抽象的に語り続けるという困った現象がある。おそらく土本も水俣の宿舎にあって、かかる観念論を振りかざす学生崩れにさんざん煩わされてきたことであろう。彼らとの不毛な議論を遮断するためにも、まず大文字の政治的言説を回避し、撮影行為がその場から引き出すミクロな政治性に限定して関わるという選択をしたことは、体験的に賢明なことであった。土本はカメラを被写体に向ける行為の根源にある暴力性を優れて自覚していた。「相手はキャメラを見れば武器と思うし、それで引きつった顔を加害の側の人間が撮れるものか」と、彼は先行するドキュメンタリー作家の亀井文夫の方法を批判して語っている。

つねに単独者として行動すること
土本典昭は小川紳介と違って、けっして自分でプロダクションを組織しようとはしなかった。彼はつねに制作会社とそのたびごとに契約を取り交わし、フリーの立場でドキュメンタリーを監督した。小池征人、大津幸四郎、一之瀬正史といったぐあいに、声をかければ即座に駆けつける同志たちはいたが、土本は集団の長として彼らを統率することにはまったく関心を示さなかった。彼はまた単独者であることを撮影対象にも要求した。チュア・スイリン、滝田修、川本輝夫、そしてあまたの匿名の胎児性患者たちは、それぞれ周囲から孤立し、誤解と偏見のなかで苦しみつつ、誇り高き単独者であり続けている存在である。単独者が単独であることだけを根拠にして築き上げるであろう共同体こそ、土本が理想として思い描いていた党であった。

いかなる場合にも余所者であり続けること
土本はどれほど長く水俣の患者たちの集落に滞在しようとも、けっしてその地の方言を安易に口にしたりして親しさを演技したり、被写体と馴れ合うことを厳重にみずからに禁じていた。彼はつねに冷静な標準語で患者たちに接し、自分が外部から到来した異人であることを強調しようとした。これは三里塚や古屋敷村に住み着き、ホモソーシャルな共同体を築きあげながら映画を撮り続けた小川紳介の組織論とは、まったく対照的である。ドキュメンタリーとは定住者の眼差しではなく異邦人のそれによってこそ撮られるべきものだという信念は、「ドキュメンタリー映画は、そもそもロードムービーだと思っている」という発言によく表れている。

[『新潮』2008年9月号掲載論考からの抜書。土本発言の引用は石坂健治・土本典昭『ドキュメンタリーの海へ』から]