(「土本典昭の映画史」編集後記)
もしかしたら世代的な慣用にすぎないのかもしれないが、お目にかかりお話をうかがう機会があって印象深かったのは、二人称がいつも「あなた」だったことだ。そういえば、画面内に(時に声だけで)登場する際も「あなた」という二人称で相手に呼びかけていた。「ドキュメンタリーの本性はコミュニケーションである」と語ったその作家の、「人と出遭う事業である」ところの映画制作の一断面を垣間見た気がした。その現場の思考と実践こそが、あの人のあの表情を、この人のこの言葉を導きだし、そのシンギュラリティを輝きの内にフィルムへと収め得たのは確かなところだろう。つまり、映画を見ながら、その人、土本典昭の表情が、身体が、実存が、否応無く想起させられる……。さて、その人が不在となった今、哀悼の心とともに、しかし、私たちが糧としうるのは、映画は転生しつづける、という確信以外に無い。ここで眼目とすべきは、不在を徴づけることにはなく、未生なるものとの緊張関係を維持することであり、ゆえに、本特集の編集にあたっては「追悼」という意識をできるかぎり排除した。そう、フィルムが、言葉が残っている──呼び掛けるその人の声の彼方に(否、此岸に、と今や言うべきか)。そのことへの感謝が、この編集作業を支えた。[以下、謝辞は省略](中村大吾)
※上掲の文書は、『映画芸術』425号の特集「土本典昭の映画史」の責任編集者による、掲載されなかった編集後記である。本企画の企画者のステートメントのひとつとして、筐底より抽き出し、ここに残しておく。